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地下壕とわたし (1)

 高尾町 鈴木ミヨ子さん


フジムラ薬局のわきの道は、
前はとてもせまく、
西側にヒイラギの木がずうっと植えられていたので、
「ヒイラギ横町」と呼ばれていた。
ある日憲兵がきて、
「道路を広げるから、
床屋をおまえのうちのわきに移させるように。」
といった。
父は町でも評判のがんこものだったので、
承知しなかった。
わたしはそのころ相模造兵廠につとめていた。
ある日の夕方家に帰ると、
いきなり憲兵隊の本部にひっぱられた。
私が帰るのを待っていたようすだった。
憲兵隊の本部というのは荒井肉やの二階にあった。
父ががんこでなかなか承知しないので、
妻や娘もいっしょにせめたてよう
というつもりだったらしい。
父と母、姉と私の家族4人いっしょに
せめられた。
憲兵に、「不動の姿勢!」とどなられて、
ふとっていた母が下駄ばきの姿で
よろよろしたみじめな様子を
今でもよくおぼえている。
そのとき母は54才だった。
そして、思い出すたびにくやしく、
情けないおもいになる。
このできごとだけは、
当時の権力のこわさ、
すごさをあらわすものとして、
今の人たちにも知っておいてもらいたいものだと思う。
妻や娘をまきぞえにされて、
さすがの父もしょうだくするしかなかった。
返事をすると、すぐにかえされた。
軍の力でおどかせば、
なんでもとおる世の中だった。


浅川地下壕物語(1)


ここは 高尾の町
わたしたちの ふるさと
緑の山の すそをめぐって
浅川の流れ きょうも流れる
昔 戦争があった
緑の山も お国のために
穴をうがたれ
人の群れ
昼も夜も
人は去り 時が流れて
穴の入り口 草にかくれても
地下の壕は ひっそりと
歴史を語る 戦争を語る

1991年、浅川小学校の6年生が
校内の学習発表会で劇の上演をしました。
題して「浅川地下壕物語」。
1学期に実行委員を選び
夏休みに地域の方々から聞き取りをして、
2学期が始まってから台本作り、練習、
そして11月に本番上演と、
ほんとに短い期間に大変な仕事でした。
いろいろむずかしいこともあり
辛いこともありましたが、
そのときの実行委員長をしてくれた佐々木君が
先日の設立総会に参加してくれました。
総会が終わり
ニュースの紙面構成を話し合っている中から、
「浅川地下壕物語」のコーナーを作って、
浅川地下壕がどんなものか
わかりやすく解説していこうということになりました。
思い出の中の「浅川地下壕物語」と、
これから長く続くであろう保存運動
「浅川地下壕物語」とが
今は胸の中でごちゃまぜになっています。
それはともかく、このコーナーは、
小学生にも読める文章で
浅川地下壕の解説をするというものです。
そこでまずは、
劇の中で歌った歌の一部を
なつかしく思い出しながら書き出してみました。
「浅川地下壕」とは、
高尾の町に残る大きな歴史の遺跡です、ということです。

 

地下壕とわたし (2)

武蔵野市 山口 清知さん


私は、もともと建築請負業をやっておりました。
昭和16年徴用を受けて関東軍に属し、
ハルピンに2年間ほど滞在した後、
昭和18年4月に日本に帰り、
東部軍として日本国内各地の現場で働き、
昭和20年4月に浅川地下壕工事の現場に着任しました。
物品会計管理の責任者として
部下7〜8名とともに
10坪ほどの事務所を割り当てられて任務につきました。
事務所は浅川町役場の近くで
川のそばにあったように思います。
着任した4月当時には、
壕の内外で作業台をしつらえて、
飛行機の小型エンジンを作る作業が
盛んに 行われていました。
地下壕の奥の方には入ったことがありませんので
トンネルを掘る工事そのものは
全く見る機会がありませんでした。
思い当たることは松の材木ですね。
あの頃、八ヶ岳の方の山林で大きな火災があり、
その跡から松丸太を調達しました。
貨車で2両分ずつ毎日受け入れていました。
軍需省の発注ですから
どんどん送られてくるのかと思いましたが、
なかなかうまくいきませんでした。
現地に監督に行ってみると、
派遣しておいたトラックは
全然関係ない物資を運んでいるし、
山梨県の役人達は
けっこう軍をみくびっていたようすで、
ずいぶんくやしい思いをしたものです。
都内の方は空襲で危険だからということで
物資は八王子方面に集積する方針になっていたので、
私の手元には、兵器以外の物資が相当ありました。
八王子の町の方に、
こうりゃんや缶詰が山のように野積みされていたのが、
8月2日未明の空襲で水をかぶって
みんなだめになってしまいました。
あの食糧難の時代にもったいないことでした。
終戦の時、多摩御陵近くの河原には
数百メートルにわたって材木が積まれていました。
また、私の手元にセメントも2万袋はありました。
8月15日の命令で、
三多摩の各市町村には迷惑をかけたので、
物資は地元に払い下げろということでした。
浅川地下壕関係の建物も総計108棟あったのですが、
それも同じでした。
18日には、八王子地域は占領区域に入っているので、
終戦時の原状のまま
占領軍に引き渡せという命令がきました。
しかし、8月25日に占領軍は八王子に入ってきたときには、
人の手で運べるようなものは、
何も残っていませんでした。
ガソリンを入れるドラム缶を
子ども達が列をなして
甲州街道をころがしていった様子が
今でもはっきりと目に浮かびます。
12月、ようやくアメリカ軍の下士官からサインをもらって
任務から解放されました。
その後、浅川には行ったことがありませんでしたが、
昨年10月に浅川地下壕の保存をすすめる会の
新聞記事を読みまして、
本当に懐かしく思いました。
あれから50年以上過ぎてしまって
私も91歳になってしまいました。(談)


浅川地下壕物語(2)


高尾駅の北口から甲州街道に出て、
右に曲がると、
見事ないちょう並木が東に向かって続いています。
4〜5分歩いて町田街道入り口の信号の手前から
左にそれる道の方に入って行くと、
それまでコンクリートのふたの下に
かくされていた水の流れが顔を出します。
そして、水路に沿って
趣のある板塀に囲まれた家が
いく軒か目にはいってきます。
ここは、甲州街道の旧道なのです。
そして、板塀の1軒が
有名な「石川日記」のお宅です。
石川家では1720年より今日まで
一日も欠かさずに日記を書き続けてきました。
その日記の1944年9月14日のところに
「初沢落合間の山林、
軍部にて工事始め」
と書かれているそうです。
浅川地下壕の工事の様子や
飛行機エンジンを作る工場のことなど
細かい事実を確かめようとすると、
軍の秘密という壁に当たって
なかなかわかりません。
人の記憶というのも、
あやふやなものになりがちです。
でも、書き残したものは確かです。
300年近くも書きつがれている石川日記は
浅川地下壕工事のはじめを知る
大事な証拠となりました。

 

地下壕とわたし (3)

八王子市 川村裕介さん


浅川地下壕の保存をすすめる会の皆様
初めまして。
僕は今回、
学生会員第一号として入会しました川村 裕介です。
まず僕と事務局の山梨先生との関係をお話しします。
山梨先生は、浅川小学校に赴任された昭和63年、
僕たちの担任でいらっしゃいました。
6年生の時の学習発表会では、
「浅川地下壕物語」を公演しました。
その時僕は、全く役に立ちませんでしたが
実行委員の一人として活動しました。
その後中学・高校の時は
先生とは音信不通の状態でしたが、
昨秋先生がふらりと家に立ち寄られ
この会の設立について話されました。
そこで今春大学入学が決定したと同時に入会し、
今このような文を書いているというわけです。
次に僕と地下壕との関係ですが、
山梨先生から感染した「社会科好き好き病」による
「歴史中毒症」から起こる地下壕に対する興味とともに、
僕の祖父母宅は(落合にあり、
現在の当主(伯父)で12代目という家だそうで
織物工場を営む家でした。)
「8月2日の八王子空襲において
落合地区で被災した家の一軒である。」と
文献に出ているところからも
地下壕に対する思いが湧きあがって来ていると思います。
僕の家からは、
ブロックでふさがれた地下壕の抗が見えます。
ふさがれたまま外に出てこられない地下壕の歴史や
人々の思いを積極的に外に出してあげたいと思いますので、
皆様とともに微力ながらも会の発展のため、
また自分の知識を増やすために
会の一翼を担いますのでよろしくお願いします。


浅川地下壕物語(3)


もう15〜6年も前のことになります。
その頃勤めていた上館小学校で、
地図・探検クラブというのをやっていました。
その日は、2.5万分の一の地形図に、
学校から高尾山口駅へ向けて一本の直線を引いて、
その線の上を歩いて行くという探検をしました。
崖を登ったり薮をくぐりぬけたりして
すごい探検になったのですが、
その時、ルートをそれて
地下壕の入り口をのぞきにいきました。
鉄の扉のすきまから中をのぞいていると、
突然壕のなかからすごい音が響いてきました。
びっくりして後ずさりしていると、
鉄の扉が中から開いて、
自動車が出てきまた。
時が過ぎてほかの記憶が薄れていく中で
自動車の音だけが耳に残り、
拡大して、
大きな戦車でも出てきたかのような
印象になっていました。
昨年の設立総会の会場の展示に
その時の写真を探し出してみましたら、
小さな軽自動車が写っていましたので、
なんだか自分でおかしくなって
笑ってしまいました。
でもその写真に写っている軽自動車には、
マッシュルームハウスとはっきり書いてありますので、
壕内でマッシュルームの栽培が行われていたことの
証明となりました。
壕の中には、
これとは別のトラックが
今でも置き去りにされたままになっています。



 

地下壕とわたし (4)

埼玉県越谷市 峯尾 忠一さん
(1962年生まれ)


さまざまな偶然が重なって、
4月25日、浅川地下壕現地調査に加わる機会を得、
およそ20年ぶりにあの巨大な暗闇の中に入った。
高尾町で育った私は、
小・中学生の頃よく金刀比羅山の地下壕で遊んでいた。
そのころすでに「ガキ大将」は存在しなかったが、
それでも土地のそういう場所には特別に詳しい友だちがいて、
その手引き案内のうしろについて
おずおずと入っていったことをおぼえている。
今から考えるとそれは
「ロ地区」とよばれた第2地下壕だったのだが、
当時はむろんそうした知識はもっておらず、
ただ父母や親戚の大人たちから
そこは中島飛行機の工場だったので
特別に大きいのだと聞かされていた。
はじめはとにかく
三和団地側の出口の光が見えたときの安心感で
ホッとしたものだったが、
2度3度と入るうちに慣れて、
内部でわざと電灯を消したり、
鬼ごっこをして遊ぶようになっていった。
天井のえぐれの形そのままに積もった崩落の現場や、
とおくでカラカラという落石の音があって
ゾッとしたこともあったが、
この地下空間はあまりに広く、
スリルに満ちておもしろかったので、
私たちの特別な遊び場であった。
さらに同じ山に、
つながっていないいくつかの一本抗があることも知ったが、
出口がないので2度くらいしか入っていない。
今回入ってみて、
そのうちのひとつがほとんど昔のままだったことに
感慨深かった。
そして、たくさんのライトに照らし出されて
初めて見た大地の力「断層」、
深い穴のいちばん奥に
澄んだ地下水をひっそりとたたえた「池」、
リスかムササビが冬を過ごした巣穴のまわりに
無数に散らばるクルミの殻など、
こうした自然の痕跡もあざやかな感動だった。
また今度の調査ではじめて「イ地区」の壕に入り、
その整備された巨大さに驚いた。
ここが工場の本拠であった。
むかし土地の大人たちから聞いた話にも、
多少の異同や誤解があるのだなと知った。
専門の先生や保存をすすめる会の人々と一緒だったので、
これほど心づよいことはなく、
以前から興味深かった問題であったので
意義のあるフィールドワークだった。
地下壕のことばかりを書いたが、
ここは戦時中、
中学生だった父が八王子空襲の際に焼け出されて
パニックの中で避難した山であり、
また猪ノ鼻トンネルを銃撃した飛行機を
目撃したという場所でもあった。
ここで働いた朝鮮半島の人々が
店で飲んで騒いだり、
浅川駅前の広場でサッカーに興じていた姿を
母はみていた。
地下壕はこうした過去の記憶につながる
タイムトンネルであり、
私はますます関心のたかまるのを抑えることができない。


浅川地下壕物語(4)


自転車置き場になったヒイラギ横丁
初沢踏切から甲州街道へ出る狭い通りが、
昔、ヒイラギ横丁と呼ばれていたことは、
会報1号に鈴木ミヨ子さんが書いています。
浅川地下壕の工事用道路として
自動車が通れる広さに拡張するために
ヒイラギの姿は消されてしまったわけですが、
鈴木さんの瞼には
今でもとげとげの葉っぱが焼き付いているのでしょう。
先日、資料の整理をしていましたら、
この道のちようど十年前の写真が出てきました。
それにはオ一ト三輪が写っています。
10年前の1988年、
オ一ト三輪はすでに博物館ものてしたか、
この車は高尾の町をちやんと走って働いていました。
そして今年の春、オ一ト三輪が止まっていたこの場所は、
市営の臨時自転車置き場に変身しました。
下の写真でごらんのように、
同じアングルで写した二枚の写真が、
その変化をしっかり記録してくれています。
時の流れの中で消え去っていくものを、
思い起こし記録にとどめ、
よりよき未来を築くための指針として
学ぽうとするのが歴史です。
ビイラギ横丁の移り変わりは
ささやかな記録としてここに書き留められましたが、
過き去った昔、
浅川地下壕の暗闇の中で働かされた多くの人々の記録は
誰が消し去ってしまったのでしようか。

 

地下壕とわたし (5)

八王子歴教協 黒坂 信也 


教員組合主催の見学会に参加したのが、
私と浅川地下壕の初めての出会いでした。

5年ほど前のことになります。

子どもの頃よく遊んだ防空壕跡の様子を
頭にえがきながら参加した私は、
壕の中に入ってまず、
その広さ、大きさに驚かされました。

子どもたちが入り込まないように
塞がれた入り口がありました。
長年の風雨で崩れ落ちてくる土砂で
埋まってしまった入り口もありました。

わずかに開いている入り口から
もぐり込んでみると、
中はジャンプしても届かないぐらいの
高さがあったのです。

懐中電灯で照らしてみると、
大きな岩石がごろごろころがっていたり、
山のように重なっていたりする所がありました。

そういうところの上を見ると、
天井部分がえぐれて落ちたことが、
はっきり分かりました。

また足元には多量の水がたまって
池のようになっているところもありました。

山梨先生の説明から、この地下壕は、

(1) 15年戦争の末期、
陸軍の命令で有 無を言わさず用地買収されたこと

(2) 壕を掘るのにたくさんの人々が動員 され、
中でも、多くの朝鮮の人々が
強制連行・強制労働させられたこと

(3) はじめ大本営を移す目的でつくられ、
後に中島飛行機武蔵製作所の工場として使われ、
10基ほどの飛行機エ ンジンが
作られたことなどが分かりました。

懐中電灯の光の中に浮かび上がる岩盤を見ながら、
遠く故郷を離れた朝鮮の人々の心が思われ、
体がふるえたことを思い出します。

戦争体験者が高齢化し、
聞き取りによる平和学習が
だんだんむずかしくなってきている今、
戦争を物語る遺物の保存は
大切だと思います。
特に、首都東京に掘られ、
戦争末期の戦争指導者たちの考えが
表れている浅川地下壕の保存は、
ぜひ急いで実現したいものです。
また、歴史を伝える学習の場としての
資料館建設も大切だと思います。
保存をすすめる会ができて、
このようにニュースも発行されるようになったのは、
実現への大きな一歩です。

私も学習を深め、
地下壕の保存の意義や歴史的価値を
多くの人に広め、
語り継ぐために微力を尽くしたいと思っています。


浅川地下壕物語(5)


浅川小学校も戦争中は
浅川国民学校という名称でした。

現在北校舎と呼ばれている場所に
木造2階建ての校舎があり、
現在の北門が当時の正門でした。
今は開けることのない北門の門柱と、
その中に立っている二宮金次郎の像だけが、
戦争の時代をくぐり抜けてきたものと
言うわけです。

さて、浅川地下壕が掘られていた頃、
浅川国民学校には
陸軍の部隊が駐屯していました。
当時の先生だった方のお話では、
教室の後ろの壁際に毛布が畳んで
重ねられていたことが、
たいへん印象深く記憶に残っている
という事でした。

その毛布の畳み方が
いちぶのくるいもなく
整然としていたことが、
若い女教師の眼の奥に
しっかり焼き付けられたようでした。

朝が来て、
兵隊さんたちが任務に就く頃、
入れ違いに子供たちが登校してきて、
勉強が始まります。
若い女の先生は毛布を指さしながら、
腕白坊主どもに、
「兵隊さんを見習って、
きちんとしなさい」などと
お説教をしたのではないでしょうか。

そのお話を聞いて私の頭の中には、
日本陸軍の規律正しい
きびきびした兵隊さんたちのイメージが
出来上がっていたのですが、
この会の発足の準備会をしているとき、
当時浅川国民学校の生徒だった方が、
兵たちが学校に来て廊下などが
すごく汚くなっていやだったという
思い出を語るのを聞きました。

毛布をきちんと畳む兵隊さんなら、
生徒たちの勉強する学校を
汚すようなことはしなかっただろうにと
思われて、
わたしの頭の中では、
ふたつのお話がごつごつと
ぶつかりあっているような感じです。

 

地下壕とわたし (6)

 八王子市三本松小
堀越 研一さん


私の郷里は長野県です。
松代大本営跡から車で30分ほどの所にあります。
夏休み、郷里に帰ったときに、
ここにも5、6年前に訪れたことがあります。
その当時は、入り口に小さな建物があって、
おじさんが入り口の番をしているだけでした。
この時の印象は、
浅川の地下壕と比べて格段に立派だなあと思ったことでした。
ここの地下壕は、
篠ノ井旭高校の生徒たちの調査と保存運動がきっかけとなって
公開するようになったという話を聞きました。
今年8月15日、
久しぶりに松代大本営跡を訪ねてみました。
前回とは全くちがった雰囲気の場所になっていました。
入り口前の広場には、
漢字とハングル文字の「朝鮮人犠牲者追悼平和記念碑」
というモニュメントが立ち、
近くのプレハブの小屋には
従軍慰安婦の資料が展示してありました。
地下壕の内部も、補修されており、
危険のないようにしてありました。
中に入る時は希望者にヘルメットを貸してくれます。
内部は照明がなされていて、
懐中電灯などは必要ありません。
要所要所には看板が立ててあって説明がしてあります。
地下壕の半分ぐらい進むと、
高校生らしい男子学生が何か説明していました。
ここでの仕事の様子や、
ここで発破をかけて失敗した朝鮮人がバラバラになった
という話をしていました。
頭が天井の岩の間に挟まっていたということです。
地面には、説明のための資料が置いてありました。
さらに奥に行くと、
もう一人説明をしている女性がいました。
この人の説明を聞きながら見学することができました。
なんでも、「松代大本営の保存をすすめる会」
という組織があって、
交代で説明をしているんだそうです。
帰りに浅川地下壕を保存する会の話をしたら、
仲間がいたと喜んでくれました。
戦争遺跡の保存をすすめる全国組織があるそうですね。
浅川地下壕の保存をすすめるに当たって、
このような組織の実績に学んだり、
連絡を取り合って情報交換をしたらいいですね。
将来は、松代の地下壕のように
大勢の人がいつでも訪れることができるように、
浅川地下壕も整備されて、
資料館もできるといいなと思います。

 説明する高校生


浅川地下壕物語(6)


このシリーズの第1話に紹介した
小学生の演じた劇の中に、
「おめえのその犬、赤い毛並みでうまそうだな。」
というせりふがありました。
朝鮮・韓国人である工事人が、
犬を連れた子どもに投げかける言葉です。
このせりふについて、朝鮮新報の記者から、
「犬を食う朝鮮人という描き方に
蔑視の感情がみられる」といった意味の
指摘を受けました。
私自身、戦後の貧しい田舎の暮らしの中で育ちましたので、
カエルやヘビを食ったこともありますし、
身近なところで犬を食う話は耳にしていました。
ですから、このせりふに
蔑視の感情を含ませたものでないことを
説明して理解していただきました。
私たちの浅川地下壕の保存運動は、
歴史を学ぶ運動であり、
平和を求める運動です。
そのために、国と国、人と人が深く理解し合うことが
なによりも大事なことだと思います。
そのことを念頭におきながらも、
些細な不注意で相手を傷つけたり
してしまうことがあるのだ
という戒めの思いを込めて、
私はこの記憶を折りに触れて
思い起こすようにしています。
折りしもきょうは金大中大統領の訪日が
大きく報道されています。
両国首脳が、
「両国の国民、
特に若い世代が歴史認識を深めることが
重要であるとの考えで一致、
歴史の共同研究を推進することで合意」したことは
おおいに歓迎すべきものと思います。
国家相互の間には残された課題が
あることを認識しつつも、
歴史認識を深めるために、
私たちの会もおおいに奮闘したいものです。(山梨)

 

地下壕とわたし (7)

 峯尾 正夫さん


私は、終戦の年にちょうど国民学校の6年生でした。
その頃も今の駒木野病院のすぐそばに住んでいましたので、
浅川地下壕のことについても
いろいろ憶えていることがあります。
うちのすぐ近くに
トンネル学校の生徒たちの宿舎がありました。
西浅川の駐在所の斜向かいに正門があって、
駒木野病院(当時は小林病院)の南側から東側にかけて
三角兵舎がいくつも建っていました。
病院の敷地は今よりずっと狭くて、
周りにはたんぼが広がっていました。
そのたんぼの稲の花が終わって
ちょうど実になりだしたころ、
その稲を一日で刈り取って
宿舎の建設工事が始まったのです。
生徒たちが休みの時野球をしていて、
そのボールが硬球だったのを
とてもめずらしく思ったことが
今でも印象にのこっています。
小仏川の向こう側には
朝鮮・韓国人労働者の飯場があって、
そこの子供たちも浅川国民学校に通っていました。
私の学級にもいく人かいましたが、
同級生でも自分より年令の上の人が
まじっていたような気がします。
終戦間際の8月5日に、
いのはなトンネル付近で列車が銃撃され
50人以上もの人が殺される大惨事があったことは
よく知られています。
その時私はびっくりして怖ろしくて、
仲の良かった朝鮮・韓国人の友だちと
いっしょに逃げました。
落合の御室橋を渡って
地下壕の入り口までたどりつくと、
ちょうど友だちのお父さんがいて、
壕の中に入れてくれました。
トロッコに乗って、
真っ暗な中をずうっと奥の方まで
入って行ったような気がします。
今考えてみると、
それは浅川地下壕イ地区の
一番北の方の壕だったと思います。
南よりの方は工場として使われていましたが、
北の方はまだ掘っていたんでしょうか……。




浅川地下壕物語(7)


私の手元に、1990年8月16日の
「いのはな・浅川地下壕を記録する会」の
メモが残っています。
この会は、この日に発足したと書いてありますが、
その後のことはよくわかりません。
司会は、浅川支所長を勤められて
今は故人となられた細川さん、
本会副会長の斎藤さんが
地下壕についての概要を説明して、
そのあと座談会形式で思い出話を語り合った様子です。
その記録の中の山口さんのお話を紹介したいと思います。
そのとき山口さんは81歳の高齢でした。
以下、山口さんのお話です。

(地下壕工事が行われた)当時、
落合の山際に五軒の家があった。
中でもうちが一番工事の場所に近いところにあった。
うちはそのころ織物工場をやっていた。
1944年、サーベルをさした軍の人がいばってきた。
そのころは、軍にさからうようなことを言えば、
すぐ国賊だとか言われるような時代だったので、
だまっていいなりになるしかなかった。
特に飯橋軍属という人はいばっていてすごかったので、
食事時にくればご飯を食べてもらったり、
はれものにさわるようにしていた。
すぐに工事が始まって、
ダイナマイトをかけたりすると
そこにいられないので、
町田米店の向かいの丸通の家に引っ越した。
11月のおとり様の日だった。
それから終戦までそこで暮らした。
月に30円の家賃をもらった。
織物工場は物置として軍に貸した。(山梨)

 

地下壕とわたし (8)

李 容極さん(昭島市在住)


昨年11月に行われた第2回総会に参加して
まず感じたことは、
この会が結成されてまだ1年もたたないのに、
実に多くの仕事をなさってきたことです。
地下壕の見学者が200人を越えたこと、
そして定期的に発行したニュースが
すでに7号を数えたことも驚きです。
これは、地下壕に対する一般市民の関心が
如何に高いかを知ることでもあります。
さらに当日、姜 壽煕さんの生々しい証言を聞いて、
非常に強い感銘を受けました。
日本の植民地とされていた時代、
畑で野良仕事をしていた姜さんが、
村の駐在さんと村長、
そして校長先生にせめたてられて、
うむをいわさず、
朝鮮衣装パジのまま
自分の家族に告げることもできず
日本に連れてこられたと話されましたが、
私には目の当たりに見るように思われました。
当時朝鮮民族は国を奪われ亡国の民となり、
姜 壽煕さんのような運命をたどった人が
いかに多かったことでしょう。
あの地下壕を掘った残土が
今の初沢の谷間を埋め尽くし、
その上に住宅が建っているのを見るとき、
あの住宅の土の中には
声なき朝鮮人強制連行者の血と涙がしみついていることを
思わずにはいられません。
私達が戦争遺跡を調査し、
永久に保存する運動に取り組むのは、
あのような無謀な侵略戦争を
再び起こさないという誓いを
新たにするためであり、
あの工事のために犠牲を強いられた方々の霊を
慰めるためであります。
ところが、八王子市当局は、
浅川地下壕の保存を市議会で決議しておきながら、
未だに予算がないとか、
国がやった仕事だから市には責任がないといって、
地下壕を放置状態にしております。
しかし、地下壕建設のために酷使された
朝鮮人労働者の生々しい歴史は
消え去ることはないでしょう。
臭いものには蓋をしろ方式も通用しません。
消し去られようとする歴史の事実を明らかにし、
そこから教訓をくみ取り、
真の謝罪の気持ちを表すことが、
朝・日間の親善の道に通ずるものではないでしょうか。
今日、60万人の在日朝鮮人・韓国人のほとんどは、
日本の侵略戦争を遂行するために
無理矢理に連れてこられた人たちであり、
またその子孫であります。
しかるに、もう戦後半世紀が過ぎたのに、
未だに差別と抑圧はそのまま残っています。
これは、日本政府の過去の歴史認識の甘さと
戦後処理をおこたったこととに原因があると考えます。
朝鮮人慰安婦の問題も強制連行の問題も、
大きな世論と資料の発掘などによって
いやいやながら認める日本政府の態度であります。
なんの罪もない天真爛漫な朝鮮人学校の生徒に対する暴言や
チマチョゴリを裂く事件を
どのように理解したらよいでしょうか。
未来志向とは、
過去のことをきれいに清算し、
お互いが納得した上で未来を
共に歩むことではないでしょうか。
八王子市が浅川地下壕の保存をいち早く実現して下さるよう
切にお願いしてやみません。


浅川地下壕物語(8)


浅川小学校も戦争中は
浅川国民学校という名称でした。

Jリーグの結成によって
日本のサッカー熱は急に高まりました。
小学校の体育の授業でも、
プロ選手みたいな技を見せてくれる子がいたりして
驚かされます。
ところで、日本でサッカーが
子どもの遊びとして広まりだしたのは
いつごろのことだったでしょうか。
自分の思い出をたどってみても、
毛糸のようなものをぐるぐるまいた玉を
手で打つ手打ち野球とか、
棒切れをバットにした三角ベースとかは思い出せても、
大きいボールを蹴って遊んだ覚えはありません。
浅川地下壕工事が進んでいたころ、
高尾駅の北口広場で、
大きいボールを蹴ってサッカー遊びをしていた
朝鮮・韓国人の姿を印象深く記憶に残している方がいます。
駅前のみやげ物屋の娘だったその人の話によると、
自分たちの暮らしの中になかった遊びをしている
異国の人という感じで、
とてもめずらしく感じられたということです。
Jリーグががんばっても、
サッカーで韓国をしのげないのは、
こうした伝統の違いがあるからなのでしょうか。(山梨)

 

地下壕とわたし (9)

平本 清さん


50数年前の出来事ですが、
今でもハッキリと脳裏にあるもので、
これは実話でございます。
「浅川地下壕」にまつわる貴重な体験を、
往時を偲び記述してみることに致しました。
私の実家は、
古くから浅川の中宿という所にありました。
金刀比羅山を南に、
御陵林を北に控えた甲州街道沿いに、
その家は今でもあります。
当時は大きなビルなどはなくて、
金刀比羅山の北側一帯は
全て見通すことができました。
 子どもの頃はよくこの山に登り、
この山が遊び場の一つでした。
この山の下一帯が「浅川地下壕」です。
秘密の地下壕があったため、
終戦直前の8月1日夜半に、
この地区が爆弾と焼夷弾の
無差別攻撃を受けたわけであります。
その時の光景は、
今でも鮮明に覚えております。
それまでは、上空を飛ぶB-29爆撃機は、
浅川の上を通り
JR中央線線路を目標にして
東京へと飛んでいきましたが、
この日に限り編隊はやや低空で、
まず金刀比羅山際に数発の爆弾を投下し、
続いて焼夷弾の雨を降らせてきました。
この中を命からがら
家族で裏の浅川渓谷まで逃げ延びて
ようやく一命をとりとめました。
しかし、叔母は背にした姪もろとも直撃弾を受け、
不幸にも戦争の犠牲者となってしまいました。
終戦間際のこの時期に被災したことは、
言うまでもなく「浅川地下壕」の存在が
大きく影響していたものと思います。
被災した私共を初め近所の人々は
住む家もなく途方にくれました。
その後も、焼け跡の「土蔵」めがけての
艦載機の波状攻撃があり、
その時には、特別の計らいで
地下壕に退避することを許され、
しばらくの間この中で
空襲を回避する事ができました。
壕の中に入って、
その規模の大きさや昼間のような明るさ、
立ち並ぶ大きな機械類に
ただただ驚き入ったことを覚えております。
「浅川地下壕」のもう一つの思い出は、
わたしにとって不思議な出来事でした。
私の兄は、旧中島飛行機製作所のエンジニアで、
兵隊にも行かずに秘密裏に勤めておりました。
当初三鷹工場におりましたが、
ここが爆撃により破壊され、
その後群馬工場へと転出したあたりまでは
風の便りに知っていました。
群馬工場も被害を受け
生産機能も停止したようでしたが、
消息もはっきりしないまま終戦となりました。
焼け出されてほんの二週間ほどで
あの忌まわしい戦争も終焉、
戦禍の中から新しい生活が始まりました。
そして、思いがけないことが
家族の前に起こりました。
それは、生死も定かでなかった兄が、
ひょっこりと焼け跡の庭に立っていたのです。
その兄は、多くの事は語りませんでしたが、
最後の仕事はあの浅川地下工場で、
資材の乏しい中で、
黙々と「飛行機エンジン」の組み立て、
生産を続けていたとのことでした。
その兄も昭和28年に亡霊にとりつかれたごとく、
事故により他界致しました。
これも私共にとって、
戦中・戦後の混乱期の出来事として、
忘れられないもののひとつです。
このように、戦争は
私の家族に大きな悲劇をもたらしました。
その悲劇の舞台として「浅川地下壕」は、
私にとって忘れられない遺産なのです。


浅川地下壕物語(9)


1990年、私は、五年生の担任をしていました。
六月二日に東京都高等学校教職員組合主催の
浅川地下壕見学会があり、
これが地下壕との本格的な関わりの始まりで
斎藤勉さんと知り合ったのもこの日でした。
この日以降ひんぱんに地下壕にもぐったり、
関係者の話を聞いたり、
しきりに歩き回りました。
ある日、、初沢川にかかる橋のたもとまで来てみると
赤く錆びた鉄の塊が目に留まりました。
よく見るとレールの形です。
でも電車の線路にしては細いので、
トロッコのレールだと判断がつきまた。
1.5メートル程の長さのものが三本、
さらにレールとレールをつなぐ金具まで確かめられました。
かってに持ってくるわけにもいかず
その日はそのままに。
地下壕のトロッコのレールなら、
貴重な歴史の遺物です。
夜になって心配でたまらなくなり、
翌日、再び現場に行き、物を確かめてから、
近くの家にたずねてみました。
「あれは川から持ち上げた物だよ。
大水で流れてきたのかね。
ごみに出すところだよ。」という話。
早速いただいて学校で保管することに。
そして斉藤さんの「地下秘密工場」のグラビアの一こまに
「トロッコ用線路」としておさまったのです。
「犬も歩けば棒に当たる」とか。
「教師も歩けば教材に当たる」
という教訓のお話。(山梨)

 

地下壕とわたし (10)

山辺 悠喜子


中国「東北淪陥十四年史研究」のグループと一緒に、
黒竜江沿いの旧日本軍の要塞跡を訪ねました。
若い学者たちの歴史研究への意気込みに
圧倒されながら、
人跡未踏の山奥に眠る戦跡を歩きました。
ハイラルの地下要塞は、
辺境には不似合いな広い立派な軍用道路に
導かれるように、
幾多の人々の血と汗を呑み込んで、
雑草の中に入り口が黒い口をあけていました。
東北部には日本の敗戦までに
54カ所の永久的陣地があったといわれます。
私が見た中国の要塞は、
どれも日本のとは異なり、
構築の日時も比較的早かったせいもありますが、
植民地の人力と物力をふんだんに投入して
作られていますから、
壁の厚みも60〜70センチはあるでしょうか。
銃眼は一様にソ連の国境に向けられています。
内部は、
一定期間は部隊の生活や戦闘ができるように、
荷物を担いで通れる程の広い通路の両側に
設けられた部屋の入口には、
「兵士宿舎」、「衛生室」、「通信室」などの
文字が読み取れます。
敗戦直前に、
関東軍は少数の国境警備を残して
主力を国境線から内部に移動させましたから、
この立派な要塞も、
その設立目的を機能することなく、
ソ連の攻撃で各所が破壊されました。
今、砂丘に渡る風を受けておう保山上に立ち、
足下の砂を掬ってみますと、
風化した骨片が砂の色を白くしています。
土地の古老が語る労工たちの苛酷な末路が思われて
戦争を心の底から憎まずには居られません。
万人坑に続く丘の上に、
無数のソ連軍兵士たちの墓標が、
再び家族との団襲を果たすこともなく、
祖国を向いているのもつらい風景です。
日本の敗戦は、
その勝敗に関係なく
幾多の犠牲によってもたらされた
掛け替えのないものだと実感しました。
私は、先日初めて浅川の地下壕へ行きました。
戦争末期「慌てて」の言葉通りに
未完成の掘っただけのものでした。
中国のそれは、不十分でも
地域の人々や村政府が管理していて、
定期的に掃除し参観者を待っています。
そして必ずそばに万人坑があります。
「以史為鑑(歴史を以てかがみとなす)」
立派な石碑などはありませんが、
人々の心の中に歴史が生きているのを感じます。
ついでに付記しますと、
当地の歴史研究者たちの努力により、
去年の七月から地下壕の中で
旧関東軍の残した資料をはじめ
関係資料の展示が行われているそうです。
政戦後にペストの流行にも見舞われた
日本侵略の爪痕も生々しい北辺の要塞を
ご紹介致しました。


浅川地下壕物語(10)


犬の話をもう一度。
このシリーズの六回目に、
劇に出てくる犬の話を書きました。
この犬のモデルになったのは、
浅川地下壕イ地区工事が進む中、
初沢町高乗寺近くに住んでいた
武井さんが飼っていた犬でした。
都心から疎開してきて、
ふだんは女一人で暮らしていたところに、
突然大規模工事が始まり、
家の周りをたくさんの
荒くれ男たちが歩き回るようになって
心細くしていたとき、
犬がいてくれたことが
とても心強かったということでした。
ところが、
その犬を献納しなければならなくなったのです。
劇作りの学習の中で
六年生の子供たちは、
八王子市教育委員会刊行の
「八王子の戦災と空襲の記録」
に載っている
「犬の献納運動」のチラシを
大きな模造紙に書き写しました。
「勝つために
犬の特別攻撃隊を作って
敵に体当たりさせて
立派な忠犬にしてやりませう。」と、
チラシに書いてあります。
どこにでも喜んでついてくる犬だったのに、
役場に連れていこうとしたときは
気配を感じとったのか、
いくら引っ張っても動かないので
たいへんだった、という
武井さんの話を思い出しながら、
子供たちは、
戦争というのはただ兵隊が戦ったり、
爆弾が落とされたりするだけでなく、
普通の人々の生活そのものが
変えられてしまうものだと強く感じとりました。
(山梨)

 


浅川地下壕物語(11)


夏休みに入って間もなく
中国へ旅する機会があり、
黒竜江省ハルピン市郊外の
731部隊本部遺跡を訪ねました。
日本軍が、毒ガス兵器、生物兵器等を
開発するために設置したこの部隊本部は、
広大な敷地に飛行場も備え、
監獄、動物飼育室、冷凍試験室、
死体焼却炉等数多くの建物がありました。
部隊が撤退するとき、
それらは証拠を隠すために爆破されましたが、
その残骸が今もかなり残っています。
鉄筋をむきだしにした建物あとを見ながら、
生きたままの人間を麻酔もせずに解剖したなどの
怖ろしい出来事を思い浮かべると、
真夏の暑さの中にいても、
身も心も凍り付きそうな思いにかられました。
案内パンフレットを見ると、
「変なことに戦後の四〇年あまりの間、
この歴史の事実を人々は見落としてしまっていた。
中日関係の成熟に伴って、
両国の歴史学者の共同の努力によって
真相が明るみに出てきた」
という説明が載っていました。
浅川地下壕物語りを書き続けることも、
歴史の真実を洗い出し、
平和な未来を築くための一歩であることを
信じたいと思います。(山梨)


浅川地下壕物語(12)


今回は、「爆薬発見」の話。
新聞で話題になったのは、
この8月の終わり頃の事ですが、
「発見」されたの は1月26日のこと。
この会報の8号と9号に
TBSテレビの取材と放映の様子を紹介していますが、
その取材の時に初めて見つけて、
そのあとあらためて調 査し、
かなり大量のダイナマイトがあることを
確かめました。
それから市の防災課や警察との
対応に追われたのですが、
その指導に従って
本会も公表を控えてきました。
私たちはこれまで壕の中には幾度となく入り、
隅々まで目を届かせていたつもりでした。
もう、遺物と呼べるようなものは
何も残っていないと考えていましたから、
この大量のダイナマイトの存在には
ほんとに驚きました。
そして、こうした発見にいたったのも、
すすめる会という組織を新しく立ちあげて
がんばっていることの成果なのだろうと
話し合ったりしました。
ただ、物がものだけに、
私たちの手でどうすることもできず、
自衛隊出動というおおごとに なったり、
イ地区の見学活動が
ずっと停止状態になったりしていることは、
ほんとに困ったことです。
今は、早く処理が済んで、
そこから回収されたものから
終戦当時の状況を知る新しい手がかりでも
得られることを期待したいと思います。(山梨)

 

地下壕とわたし (13)

菅谷 平八郎(品川区在住)


私も浅川地下壕を掘った一人です。
1945年の春の1カ月間位のことでしたから
よく覚えていませんが、
山の斜面の草や桑の生えてる所を掘って、
掘り出した土をもっこで
下の方に運んだことを覚えています。
送っていただいた「ピースあさかわ」の写真を見ると、
山の中に大きな壕が残っているようですが、
私はこのようなものは見た記憶がありません。
東京・武蔵野の陸軍の部隊に所属し、
中島飛行機武蔵製作所で機関工として
「零戦」などのエンジンの組み立てにあたりました。
そこでは激しい空襲をたびたび受けました。
1トン爆弾の破壊力はものすごく、
線路が枕木ごと吹き飛ばされて、
桜の木に引っかかった様子が
今でもはっきりと目に焼き付いています。
そんな状態で仕事は続けられず、
浅川に移ることになったようです。
3月10日の東京大空襲の後のことでした。
浅川小学校(国民学校)の講堂には
山のように布団がつんでありました。
1カ月間風呂に入れず、
シラミがわいて大変困りました。
仕事の帰りに朝鮮人労働者の飯場によって
ドブロクを飲ませてもらって、
消灯後にこっそり講堂に戻ったことなどもありました。
5月半ばに、
今度は栃木県の大谷工場の方に移りました。
部隊の宿舎のすぐ近くに兄の家があり、
中隊長といっしょに風呂に入りに行けたりして、
ほんとにうれしかったです。
戦後になって中島飛行機の
武蔵野市の工場跡地に
現在のNTT(当時は逓信省)の建物を
建設する仕事に関わることになりました。
空襲の恐怖にさらされた同じ場所で
仕事をしたわけですが、
そのとき零戦のシリンダーを偶然みつけました。
それを今でも大事に持っていますが、
戦争の恐怖は二度と味わいたくないものだと
心から思います。
新聞記事から浅川地下壕の保存をすすめる会のことを
知りましたが、
どうぞがんばってください。


(註)この文章をいただいてから
「地下秘密工場」の本をお送りしました。
それを読んで、自分が掘ったのは、
ハ地区に間違いないとお電話をいただきました。
ハ地区の工事の最初の頃だったのでしょうか。
また、1トン爆弾のすごさを思い出して
絵も描いて送ってくださいました。(山梨)


浅川地下壕物語(13)


師走の声を聞いて、
さすがに寒くなりました。
初沢山の木々も葉を散らし、
地面には霜が降ります。
こんな季節のひときわ冷え込む朝、
初沢の谷に白い煙が上がるそうです。
引っ越してきて初めての冬、
この煙が家の裏山から
立ち上っているのに気がついて、
火事かと思って驚いたという話を聞きました。
浅川地下壕ハ地区のすぐ東側に
お住まいの方の話です。
白い煙の正体は、
地下壕から出る空気が
外の寒さに急に冷やされて
湯気になったものなのだそうです。
私は自分の目で確かめたことはないのですが、
地下壕の中は一年中
十度くらいの温度ですから、
なるほどとうなづけます。
高乗寺前のイ地区の入り口は
道路のすぐ脇ですが、
登校する小学生が待ち合わせをしているところに、
やはり白い煙が吹き出してくることがあるそうです。
そこの入り口に今日行って見ましたら、
爆薬回収工事が始まっていて、
目隠しの植え込みは取り払われ、
代わりに厳重な工事用の鉄の壁と扉が
とりつけられていました。
そして、黄色いヘルメットの工事関係者が三名、
出入りしていました。
(11月30日 記・山梨)

 

地下壕とわたし (14)

石郷岡 日出子(八王子在住)


私と地下壕との出会いは、
娘が沖縄に住むようになった
15年前の事です。
東京と沖純を頻繁に
往復するようになった為です。
よく知られているように、
沖縄は高温多湿、
激しい雨が突然降ってくる
亜熱帯性の気候です。
水に溶けやすい石灰岩層で形成されている
場所の多い沖縄には、
各地に天然の洞窟(ガマ)があります。
太平洋戦争末期、
沖縄は島中が戦場となり、
人々は、海上・地上・空からの砲弾を浴び、
その上守ってくれるはずの日本軍にも
殺されてしまったのです。
人々はガマからガマヘと逃げまどい、
追い詰められた人々は
集団自決までしたのでした。
日本の軍隊は自然壕を更に掘り進め、
司令部や野戦病院を置き、
学生たちの多くは
その壕の中で血を流し
沖縄戦の犠牲となったのです。
私はツアーでの参加もあり
友人と行ったり
一人で壕に入った事もありましたが、
暗い、水のしたたる壕の中で往時を偲び
胸の締め付けられる思いを致しました。
読谷村にある生死を分けた二つのガマの話は
今でも忘れる事はできません。
首里城の近くにも海軍嫁があり、
入ることはできませんでしたが
守礼の門の側の入り口に
以前は説明板が建っておりました。
今はそれも取り払われ、
穴を覗く人もおりません。
ガイドブックを読んでも、
南部戦跡を除き
戦跡の案内は見あたりません。
沖縄戦も風化されようとしているのでしょうか。
浅川地下壕は
八王子に住むようになって
その存在をはっきりと知りました。
地元浅川小の先生方が子ども達と協力して
地元の人から話を聞き
周囲の圧力をはねのけ
演劇として上演したと聞き、
子ども達にありのままの歴史を
正しく教えようと努力なさった
先生方の姿勢に感動致しました。
昨年遅ればせながら
保存をすすめる会に入会しました。
歴史を捻じ曲げようとしている人達が
目に付くようになった現在、
多くの犠牲者の魂を抱いて
静かに眠っている地下壕
及び多くの戦跡の存在を
人々に知らせ守っていく事が
戦争で生き残った者達の
責任であると思っています。


浅川地下壕物語(14)


冬休みが終わって間もなく、
3年生の子ども達を連れて
杉の葉拾いに行きました。
社会科の学習の
「くらしのうつりかわり」という単元で、
その導入として
七輪に火を起こし、
餅を焼いて食べることにしたのです。
その焚付けに使うための杉の葉拾いでした。
浅川小学校の南には初沢山があり、
教室から十分も歩けば、
杉の葉などいくらでも拾えるのです。
初沢山の山裾、みころもの池の周りは
このごろずいぶん整備が進んでいます。
池のほとりの石段の下に
子ども達をしやがませて、
ちょっと問題を出しました。
「赤土が崩れて崖になっている下の方に
きれいに石が組まれていますが、
3年ほど前まで
ここには穴が3つならんで開いてめました。
さてその穴はなんだったでしょうか。」
きょとんとした顔の子ども達の中でただ一人、
威勢よく手を挙げて
「防空壕!」と答えられた子がいました。
その答えを受けて、
戦争があった頃
ここの谷には
たくさんの防空壕が掘られていたこと、
浅川小学校の女の先生が
校庭を横切って
この防空壕に逃げ込んで助かったことなどを
話してやりました。
今みころも公園と呼ばれている辺りは、
その昔「廠長谷(しょうちょうだに)」
と呼ばれていたそうです。
浅川地下壕の中で
戦争当時
稼働していた工場は、
中島飛行機株式会社が
軍需省の管下に組みれられ、
第一軍需工廠の
第十一製造廠(またはア製造廠)と
呼ばれていました。
その製造廠の廠長の事務所が
この場所にあったのだそうです。
でも、3年生の子ども達には
こんな話はしませんでした。
杉の葉を拾いながら林の奥に進んで、
塞ぎきれずに
まだ口を開けている別の防空壕を見つけて
大騒ぎしている様子から、
この日の授業の手応えを
充分に感じたものでした。(山梨)

 

地下壕とわたし (15)

真嶋 孝士(八王子市打越町旭が丘団地在住)


忘れもしない99年8月14日、
この日は多摩西部地方は朝から大雨だった。
私は、初出版を予定している
「四季の草花カット集」の扉に使う絵を
「サギソウ」で飾りたくて、
片倉の菊池さんの家からサギソウの鉢をいただき、
高尾の奥田宅に向かったのだった。
車なのに、
出人りだけでびしょぬれになった印象が鮮明である。
我が家から50m下の角に消防車が来ており、
なにやら人だかりがある。
なにごとかと近づき
消防団員らしき人に聞いてみると、
「この家の裏が、陥没してね、
大きな穴が開いてるんですよ。」
とのこと。
「危険ですから、立ち人り禁止です。」
隣の敷地から覗いてみると、
直径4〜5m、深さ6〜7mもの巨大な穴で、
雨が激しく流れ込んでいる。
「おばあちゃんは無事だったが、
洗濯機がおっこって、見付からない。」
後で撮った写真をみると、
奧に横穴が続いていることが分かった。
住宅地の真ん中で、
これほどの陥没の不気味さ。
「防空壕の跡らしい」という人もいたが、
信じられなかった。
しかし、すぐに駆け付け調査してくれた
松本市議会議員の「資料」によれば、
「旧陸軍が、梅洞寺裏に5本の壕を掘り
医療資材を格納した」
史実が明かになった。
なんということだ、
平和で安全な住宅地に、
忌まわしい軍の地下壌が出現したのだ。
自治会は、情報を敏速に「新聞」で伝え、
一丸となった署名活動を実現、
「調査と防災対策」の要望を強く市当局にせまった。
私は、咋年2度ほど
「松代地下壕」を見学している。
「浅川地下壕」も一部見ている。
当初、同様規模もうわさされたが、
調査の結果は網の目状ではない、
沢からの横穴数本があったようだ。
国と自治体の予算で、半年に及んだ
最新機器によるレーダーなどの調査(団地全域)と
陥没穴の大量の「エアーミルク」注入、
土砂での完全埋め戻しが3月末までに完了
、静けさが戻っている。
全体の経費3000万円強が使われたと聞いている。
さらに政府の「緊急雇用対策」を活用し、
2000年度も精密調査事業が継続するそうだ。
正式報告があればまた報告したい。


浅川地下壕物語(15)


三月、小豆島を旅する機会がありました。
四国はお遍路さんの土地。
その中の豆島には、
小豆島だけの八十八寺めぐりのコースがあって、
お遍路さんの姿をよく見かけました。
泊まった宿も、
朝食会場の大広間には
観音様の木像が立ち、
白装束の熟年者達が
「朝飯前にお勤めをするのかねえ」等と
声高に話していたりして賑やかでした。
私の目当ては岬の分教場で、
三十三年間の教職生活を終える記念に、
「二十四の瞳」の物語の感傷に
浸るというものでしたが、
お遍路の気分にのみこまれて、
ぐるりと島を一巡りしてみることにしました。
島の北側にまわると、
道の駅「大阪城残石記念公園」がありました。
道路から海岸に向かって
二トンほどもあろうかという直方体に
切り出された石が四十個、
整然とならべられていました。
豊臣秀吉の大阪城の石垣を築く石が
この小豆島からたくさん
切り出されたのだそうですが、
海辺まで運ばれながら
どうしたわけか船積みされずに
残されたままになったものなのです。
建物にはいると
中は立派な博物館で、
石切の道具がたくさんならべられ、
石切の技術の歴史が
分かりやすく展示されていました。
たくさんの展示品の中に
「明治二十四年製造
坑山火薬四十・ 岩鼻火薬製造所」と
読みとれる字の書いてある木箱が
目につきました。
それを見たとたん、
意識は浅川地下壕に飛んで帰ってしまいました。
昨年一月以来、
例の爆薬騒ぎで
浅川地下壕イ地区の見学活動が
ストップしたままになっているのですが、
壕の中に残されている爆薬を製造したのは
たぶん群馬県の岩鼻火薬製造所のものだと思うから
確かめて欲しいと頼まれているのです。
その答えをまだ正確に送れていない宿題が
急に頭に浮かんできました。
それにしても、
事実というか問題意識というか、
不思議なつながりをもって
展開していくものなのだと、
一人でしきりに愉快な気分に浸ったものでした。
(山梨)

 

地下壕とわたし (16)

板倉 純(館町在住)


3年ほど前の浅川地下壕見学会に参加して以来、
久しぶりに4月22日
「八王子南束部の地下壕を歩く
フィールドワーク」に参加しました。
解説をしていただきながら、
都立長沼公園の二つの壕、
鎌田鳥山下の地下壕などを見学しました。
歴史と合わせて
長沼公園や野猿峠の地質は大変もろい砂地であった
という地質の勉強をしながら
戦争の愚かさを思いました。
会報No.14にくわしく報告されている梅洞寺裏壕や
陥没のあった柳下さんのお宅やその附近も
其嶋さんの説明を聞きながら見学しました。
東の沢には柵がめぐらされていて
降りることが出来ず
壕の入り口は見ることが出来ませんでした。
また、この日小比企の壕は
時間の関係で行けませんでしたが
ぜひ行ってみようと思っています。
近くにこんなにたくさんの戦争の跡があることを
多くの人に知っていただき
平和について共に考えていく事が
『神の国』発言など
歴史を捻じ曲げようとしている勢力を
抑えるカになるのではないでしょうか。
私は、いま「2000年の八王子」を撮る会で
写真撮影の浩動をしています。
1年間の活動ですが
2000年を写真で記緑に残そうという取り組みです。
浅川地下壕の保存をすすめる会の記録も
加えたいと思っています。
2000年内に撮影された写真がありましたら、
ご提供をお願いいたします。


浅川地下壕物語(16)


浅川地下壕の見学で案内するたびに、
このごろひとつ気になっていることがあります。
戦争の証拠とは全く別のもので、
鍾乳石のようなものが岩壁に固まって
光っているところのことです。
イ地区の高乗寺手前の入り口から入って
直進して60メートルほど進んだ所の
左側の壁にそれはあります。
天井から垂れ下がった
いわゆる鍾乳石ではありませんが、
壁をいつも水が流れていて、
そこに、白い部分、透明な部分、
赤い鉄錆のような色をした部分などあります。
指でなでてみるとすべすべで、
その様子から、
鍾乳石の仲間だろうと私は思うのですが、
だれか専門家に確かめてもらいたいものです。
理科の先生に聞いたところでは、
この辺の山には石灰質は含まれていないはずだから、
鍾乳石ではないと思うということでしたが。
そんなことを考えながら先日
高尾駅の京王線のホーム下の
通路を歩いていましたら、
頭の上に十センチメートル程にも垂れた
鍾乳石を見つけました。
これはコンクリートの構造物を通って
水滴が流れるような所にできる鍾乳石でした。
長い長い時間をかけてつくられる鍾乳石ですが、
めまぐるしく変わり続ける現代社会に生きながら、
時の流れの中に消え去るものと、
消え去らせてはいけないものとがあることを
考えずにはいられません。
悲惨な戦争が私たちの住む町にあったことを
しっかりと語り伝えることが、
悲惨なできごとを繰り返させない力に
なるものだと考えるから、
私たちはこの運動を続けているのです。(山梨)

 鎌田鳥山氏の地下壕入り口

 

地下壕とわたし (17)

岡田 祇子(八王子市在住)


浅川地下壕から撤去された爆薬の入れ物だけを、
7月22日に郷土資料館で見せていただきました。
壊れかけた木箱や、
火薬を抜き取った筒状の紙袋などが主でした。
参加していた役員の皆さんは、
一つずつ寸法を測り、
板の文字を確かめ、
メモや写真撮影などをして
慎重に調査を進めました。
私は?というと、
55年も岩盤に隠されていた
実物の持つインパクトに気おされて、
「よくぞ残っていてくれたものね。
ダイナマイトは掘り出されるのを
ずっと待っていたのよ。
自分からここにいると言って
出てきたようなものね。」
といったような、
全く非科学的なことを
そばにいた兵藤さんに話しておりました。
それが、調査研究とは何の関わりもない
おしゃべりでしかないというのに。
今になっても恥ずかしさがこみあげてきます。
でも、この爆薬の発見は、
地下壕をなんとかしようという運動を
押し進める力になって、
先生方の地道な努力が報われる方向へ
進展していくのではないかと期待を持ちました。
『隠しても歴史の真実を知ろうとする者の前には          自ずとその事実が現れてくる』
そういう実例を見せてもらったという
喜びもありました。
つい先日、広島でも同じようなことがありました。
爆心地より東500mの袋町小学校で、
55年前の伝言が見つかったそうです。
生死不明の肉親を捜す人々が
一縷の望みを託して書いた文字です。
その重責を背負ったまま
今まで消えずに残っていたいきさつ。
いくらおしゃべりな私でも、
しばらくは言葉が出ませんでした。
シベリアで父を、
長春(新京)で妹を亡くした私としては、
当時の人々の必死な思いや苦難が、
徒労であったとは言いたくありません。
でも、地下壕が
多くの人々の努力や悲しみ・苦しみの上に
成り立っていることを思うと、
今もって放置され、
近隣の方々の住宅に
不安を与えているなどと言うことは
納得できません。
平和を守るために役立ててこそ、
今まで残ってきた壕の価値が高まります。
先ずは、早く住宅の安全対策に
とりかかってもらいたいと考えております。


浅川地下壕物語(17)


前にこの欄で
「犬も歩けば棒に当たる」話を
書いたことがありました。
今回は本当に棒に当たったお話。
「駐車禁止」の立て札の支柱に使われていたのが
貴重な歴史の遺物だった
というのですから驚きです。
見つかった場所は、
浅川地下壕イ地区の
今回爆薬回収工事が行われた
出入り口のすぐ近くです。
ただ、歩き回っていたら
偶然見つかったというのではなく、
この工事に携わっていた市の防災課の方が
教えてくれたのですが……。
見学会などのとき、
ヘルメットを積んだりおろしたりするために
ちょっと車を止める場所があります。
そこに車を止めてサイドブレーキを引きながら
前を見ると「駐車禁止」の立て札が
いやでも目にはいるのです。
高乗寺さんのご住職の顔を思い浮かべながら 「ちょっと失礼」とつぶやいて
運転席を離れるのですが、
立て札の裏の支柱がどんなものかまで
見ようとしたことはありませんでした。
「爆薬回収工事」は、
その発端から集結までに
丸1年を越える大事業でした。
その事業を進めるに当たって
要の働きをしたのが
八王子市防災課の課長さん、係長さんでした。
はじめはほんの数箱の爆薬ぐらいしか
見えてなかったのに、
仕事を進めるうちに次から次にと
危ない物が出てきたのですから、
その心労は大変なものだったろうと思います。
次々出てきた爆薬に混じって、
削岩機のロッドが1本出てきました。
それを見て、
駐車禁止の立て札の支柱が同じものだと
気づかれたのです。
長さ一.五メートルほどの
ずっしり重い削岩機先端のロッド。
壕内から出たものは
今郷土資料館の地下収蔵庫で保管されています。
立て札の支柱だった方は
高乗寺さんのお許しをいただいて
本会事務局でお預かりしています。(山梨)

 

地下壕とわたし (19)

上野勝也(調布市在住)


浅川地下壕については、
前から是非一度見学の機会を
と思っていた折り、
10月28日に「保存する会」の総会と
講演会のあることを知り、
参加・入会しました。
会終了後、急でしたが
個人的に地下壕の見学をお願いしたところ、
初対面にもかかわらず
十菱会長さんが快く引き受けて下さり、
ハとロ地区の地下壕を
丁寧な解説付きで見学することができました。
大変勉強になり感謝しています。
こんな所に中島飛行機武蔵製作所の
工作機械を避難設置した、
まさに末期的な状況だったことや、
工事に動員された
工兵・多くの徴用工の姿を想像して
改めて戦争のむなしさと悲惨さを感じました。
私が国民義勇隊の一員として、
江ノ島海岸で敵前上陸を想定して
大砲を設置する予定の「横穴」を掘った体験が
思い浮かびました。
また、私が教員として最後の勤務校だった
武蔵野市立いぶき学級(重度障害児学級)が、
この中島飛行機武蔵製作所の
東工場跡地にあったと言う関わりがありました。
武蔵野四中北側にあった当時の青年学校、
今でも延命寺に置かれている
25キロ爆弾の残骸、
青梅街道の地下道崩落事故、
そして不発弾処理のことなど
武蔵製作所の多くの遺跡・記録に出会ったことで
さらに関心を持つようになりました。
さらに私の住んでいる調布市深大寺近くの
国際基督教大学敷地にあった、
三鷹研究所での
米本土爆撃を意図した大型爆撃機「富獄」
(設計のみに終わる)や
特攻機専用と言われた「剣」(試作)
のことなどを知り、
巨大な軍需工場の実態を
もっと詳しく調べたいと思うようになりました。
戦後55年が経つ中で、
あのいまわしい戦争の遺跡や記録を、
次の世代に正確に伝承することは、
私達戦争経験者の役割だと自覚しています。
今後とも「地下壕を保存する会」を始め、
全国の戦争遺跡の保存運動に
積極的に参加したいと思います。


浅川地下壕物語(19)


「犬も歩けば棒にあたる」の題で、
トロッコ用線路発見のお話を前に書きました。
今回はその続き。
山の木の葉が少し色づき始めた11月6日のこと。
浅川地下壕記念資料館の設計図を
卒業設計としてやってみたいという
建築科学生の峯尾君と二人で、
ロ地区北側の16本の壕の入り口を
ていねいに調べて回りました。
図面に見られる南北方向16本の壕のうち
図面上で北側が開口しているものは10本。
そのうち現在も開口が確かめられたものが三本。
その他の七本は
長い年月の間に流れ落ちてきた土砂で
完全に埋まっていました。
でも図面を見ながら
このあたりに壕の入り口が
あったはずだと見当をつけて
斜面の状態、足下の石や土砂の形、
立木の太さなどをていねいに見ると、
確かに七本、
掘られた形跡を確認することができました。
そんなふうにして地面をにらみながら
歩き回っているうちに、
ひょいと目に入ったのが一本の焼夷弾でした。
ずっしり重い焼夷弾を手に振り返ってみると、
雑木の間から高尾の町の家並みが見えました。
55年前の、八月二日未明、
ここの家並みは一面の火の海になったのです。
焼夷弾を落とすB29の機体が
火に照らされてぎらぎら光って見えたと、
この山に逃げた人が語ってくれたのを
思い出しました。(山梨)


 

地下壕とわたし (20)

吉浜 忍(沖縄平和ネットワーク代表世話人)


1月13日は
念願の浅川地下壕を
山梨さんの案内で見学することができ、
寒さも吹っとび、
むしろ熱く燃えた日となった。
壕が見える所から概要説明をうけ、
ハ地区の壕に入った。
壕は想像していたより大きな壕であった。
高さと幅と堅固さからして、
沖縄にはこのような壕はない。
隆起サンゴ礁のもろい岩や
枯土層の土を掘って造った、
せいぜい高さ・幅がニメートルの壕がほとんどだ。
壕の使用目的によって違いはあると思うが、
前線に構築された沖縄の壕の
みすぼらしさを肌で感じた。
今後、沖縄と浅川地下壕を結ぶ
キーワードの一つとして、
国体護持の四文字の視点から考えてみたい。
私が戦争遺跡にこだわりを持つようになったのは、1983〜95年にわたって
南風原町の戦災調査を進める中で、
調査対象者である戦争体験者が亡くなるという
ケースに頻繁に出会ったからだ。
そこで沖縄戦継承を
「ヒトからモノヘ」移す時期に
来ていることを痛感し、
調査の対象に戦跡・遺留品も加えた。
なかでも南風原の沖縄戦を象徴する
南風原陸軍病院壕の調査には力を入れた。
その結果として90年には、
町独目の文化財指定基準を策定し、
病院壕を全国初の町指定文化財とすることができた。
なぜ南風原が戦跡文化財指定できたのか。
それは町出身者の若者による戦跡調査の運動や
町民参加型の南風原文化センターが設立され、
地域の沖縄戦の掘り起こしを
行政と町民が進めた成果として、
文化財指定が可能になったのである。
指定後95年には
沖縄戦終結50周年町事業
「壕の保存活用シンポジウム」、
96年「南風原陸軍病院壕の保存活用の答申」、
98年「第二回戦跡保存全国シンポジウム」
(全国ネットと共催)、
そして現在「壕整備検討委員会」が設置され、
2006年の公開に向けて取り組んでいる。
また、沖縄県文化課も文化庁の補助事業として
「沖縄県戦跡詳細分布調査(5年間)」を
98年度からスタート。
調査員には
沖縄平和ネットワークの会員が参加している。
今後の成果が期待される。


浅川地下壕物語(20)


学校教育に
総合学習というものが
新しく設けられることになり、
新聞などにもいろいろの実践例が
紹介されています。
三学期に入り、
今年度の実績づくりのために
先生方も大変なのでしょうか。
本会事務局にも
二つの中学校から電話が入ってきました。
「総合学習で生徒たち個々に
テーマを考えさせたら、
浅川地下壕を調べたいという子がいるんですが、
案内していただけますか。」
「四月頃なら、
まだ予定を入れてないのでできますが……」        「2月16日の授業でやりたいんです。」     「壕の中まで入れませんけれど、
入り口付近の案内まででもいいですか。」
「五時間目の授業が
計画の話し合いの時間ですから、
生徒たちに話してみます。」
自分もついこの間までいた学校の
あわただしい日々の風景が頭に浮かんできました。
電話してきた先生は
何の教科の担当なのか、
地下壕についてあまり把握されてない方も
いたようでした。
生徒たちが個々に希望するテーマは
学年全体では多岐にわたるでしょうから、
それをどのように整理し、
また調べた結果を
どのようにして生徒たち全体のものにしていくのか、
先生方のご苦労のほどが想像されます。
ともあれ、中学校の教室から
地下壕に目を向けてくれる動きは、
喜ばしいことです。
「総合学習」をパイプとして、
市民の活動が学校教育に良い影響をもたらせるように
努力しましょう。
生徒たちがどんな学習ぶりを見せてくれるか
楽しみです。(山梨)

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